瀬戸瀬観光の歩み
昭和46年、瀬戸瀬地区の大規模な観光開発を目指して同地区自冶会連合会が母体となり瀬戸瀬観光協会が発足、寒河江公園の拡大、公園~瀬戸瀬温泉間の舗装と桜並木等を主な事業とし、部落民の奉仕活動他により散歩小道の整備や多数の桜、つつじ、桜草などが植樹されました。
また、町も同地区にキャンプ場や協会と共同でで頂上に通ずる観光道路を建設し、ますます風光明媚な地として脚光を浴びるようになりました。
しかし、昭和58年、同公園予定地等が町に寄附されたことなどにより、同協会の活動は終了しました。
国道開削殉難慰霊之碑
昭和51(1976)年、瀬戸瀬婦人会により北見地方開発の礎となった犠牲者の霊の安らかに永眠される事を祈念して建立されました。
寒河江公園
大正3年、寒河江地区で鉱泉が発見され、同8年から昭和20年頃まで瀬戸瀬鉱泉浴場として営業されていました。
ここは山を北に負い、南は貯水池に面して春秋の季節にはすばらしい美観を呈し、眺望絶景の評判により、遠方からの来訪者、各種団体等に多く利用された。
戦後の混乱期を経て昭和29年、瀬戸瀬婦人会の手で浴場、休憩大広間が新築されました。
瀬戸瀬温泉
昭和29年遠軽町は湯の里で地下106メートルから43度毎分180リットル湧出の単純アルカリ性泉の湯量豊富な温泉を掘り当て、民間の手で開業、現在にいたっている。
・緑豊かな原始林に囲まれた山間のいで湯は、地下106mよりこんこんと湧き出る純度100%のかけ放しの温泉で、加水、加温、循環ろ過はしていません。無色透明の単純アルカリ性泉で、飲むと胃腸や糖尿病に良いとされ、知る人ぞ知る名水です。
薬師山霊場八十八ヶ所
昭和58年、瀬戸瀬婦人期成会が、国道開削に殉じた人々を偲び、皆共々に今あることに感謝し、薬師山に理由の如何を問わず登山する人々の合掌への感謝と道行く人々に安全と幸せのご加護を願うため、ご本尊八十八ヵ所(番外を含め九十七ヵ所)の建立を行いました。
八十八という数字は、八十八の煩悩に由来するとか、「米」の字を分解したことによるとか、あるいは男四十二、女三十三の厄年を合わせると八十八になり自身や人々の厄難を除くため等々、諸説はあるようです。
なお、登山口傍の観音池に注ぐわき水は名水として人気を集めております。
薬師山
小さな山ですが、住民の間では「山の神」の名で親しまれ、明治35年に入植者が開墾の労苦と併せて国道開削殉難者の霊の安らぎを薬師如来に求め、部落民一体となって頂上に薬師堂を建立したことから「聖なる山」としてあがめられてきました。
昭和15(1940)年、薬師堂の下方に国防婦人会瀬戸瀬支部の手により皇紀2600年記念堂が皇居の方角に向けて建てられました。
山神の碑
今でこそ道路はあって当たり前と思われていますが、明治20(1887)年頃では囚人が国道開削に駆り出された。
想像を絶する過酷な状況下で労役され、犠牲者が後を絶たなかったといいます。
明治25年、北見道路は完成しましたが犠牲者を供養するため、同27年、瀬戸瀬の住民は、彼らが死後も囚人と呼ばれるのは気の毒と思い木柱に「山の神」と刻みましたが、同年38年に現在の石碑が建立されました。
2006/04/25/22:00ot-9←